有名ラジオDJが曲をかけることが、ヒット曲を生み出す「要因」
これは映画「ドリームガールズ」などでも描かれ現在でも当たり前のように行われている、音楽業界の常識です。
そしてこれは、演劇の世界でも行われていた「古くからの慣習」だったようです。
演劇などのあらゆる興行は「評論」と共にあり、その「評論家」が時として、大衆に価値を教える存在となり、評論家が大きな権力を持つことにもつながりました。
映画「ワーズアンドミュージック」でも描かれるように、彼らは常に「評論(バニティフェア誌など)」とその記事を書く評論家やライターを気にして、作品を作っていました。
この映画は、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」や「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」「ドレミの歌」などで知られるミュージカル作曲家のリチャード・ロジャースと相棒の作詞家ロレンツ・ハートの伝記映画で、1920年代のミュージカル界ですら、すでに「評論」が強い立場にあったことがわかります。
このことは映画「バビロン(のエリノア)」や映画「トランボ(のヘッダ・ホッパー)」などでもその関係性が垣間見える描写があります。
そして「評論」を発表している「新聞社=マスメディア」が「大衆化」したのも、実は「産業革命」以後の出来事でした。
印刷技術が一段と進化を遂げ、現在の我々が経験しているような形になったたことについては、以下の記事で触れています。
音楽史上のクリミア戦争。世界初の現代プロパガンダとブラスバンド拡散史 – FourThree
では、次に、オペラがブロードウェイミュージカルへ変遷していく流れを見ていきます。
オペラからブロードウェイへ
ブロードウェイは形式としてはオペラに類似していますが、オペラはもともと上流階級しか見れないものでした。
そこでもっと軽いオペラとしてライトオペラやオペレッタ、サヴォイオペラというものが出てきました。
ブロードウェイミュージカルは、ヨーロッパではオペレッタと呼んだ方が、通りが良い時期もありました。それくらい似ていたということです。
なお、ブロードウェイ・ミュージカルを、ヨーロッパで上演する場合、「オペレッタ南太平洋」や「オペレッタノー・ノー・ナネット」のように、オペレッタと呼ぶこともあった。
オペレッタ – Wikipedia
もっと下層階級向けの娯楽としてはボードヴィルなどがブロードウェイにつながる重要な文化です。
ミュージックホールや大衆酒場も、大雑把に言えばこの中に入り、人が集まって音楽が演奏できる場所のことです。
このあたりの演劇界の変化についてざっとですが年表にしてきます。
1600年代 |オペラ成立@イタリアフェイレンツェ 要因はギリシャ悲劇復興運動
1637年|世界初の商業的オペラ劇場「サンカッシアーナ劇場」開業 入場料を払えば誰でも入れる(だたし貴族や裕福な市民しか支払えない金額だった)
1750年頃以降|イングランドのバラッドオペラがアメリカにも伝わる
*トルコ軍楽隊に端を発した「ブラスバンドブーム」がアメリカでも起こる。
1843年|ミンストレルショー@アメリカ
1850年頃|オペレッタ誕生 オペラ・ブッファ(喜劇オペラ)とヴォードヴィル(フランスの風刺音楽劇)の融合だった。代表作オッフェンバックの「天国と地獄」。オペラの中心はナポリへ。
ミュージックホール誕生@イギリス
1860年以降|ウィンナ・オペレッタ@オーストリア ウィーン
1870年以降|劇場派(上流階級)とミュージックホール派(中・下流階級)
1880年以降|サヴォイオペラ誕生@イギリス
<ブロードウェイ前夜>アメリカで、ヴォードヴィル、レビュー、ライトオペラ、アメリカンオペレッタが人気に
1900年前後|ブロードウェイ、ティンパンアレイの形成。これらが世界的なポップミュージック・商業音楽の多くの「参照先」になる。
このような「歴史」については、多くの場合上流階級や王族に近い人たちの活動以外は、記録が残っていません(この頃の労働者のほとんどは文字が書けないので日記などがほとんど存在しない)。記録が残っていものは類推するしかないので、正確性に欠けることもあります。
ですのでまずは、記録に残っている可能性の高い上流階級の文化を分析していくことになります。
ブロードウェイ前夜のフリーメイソン劇作家
まずオペレッタなど上流階級の文化を広めたのが、当然ながら上流階級の人脈で、当然であるかのようにフリーメイソンでした。
オペレッタを広めた初期の人物に、作曲チームのギルバート&サリバン(略称G&S)に代表される「サヴォイオペラ」がありました。
作曲チームのうちの一人、アーサー・サリバンはフリーメイソンでした。
サヴォイオペラは、サヴォイ劇場で上演された軽いオペラのことですが、サヴォイ劇場自体、G&Sの二人の作品を上演するために建てた劇場でした。
劇場を創設したのが実業家で興行主のリチャード・ドイリー・カルテでした。
リチャード・ドイリー・カルテの息子ルパートは、レーガン元大統領なども顧客だったイギリスの上流階級向けの仕立て屋「ハンツマン」の顧客でした。(名簿が整理されたようで現在では名前がありませんが、2022年11月の時点ではありました。)
Hall Of Fame – Huntsman Savile Row
このイギリスのウェストミンスターの仕立て屋の顧客にはレーガン以外にも数多くの著名人や貴族、王室などが顧客リストに載っています。
話を戻しますが、そんなドイリー・カルテの一族はアメリカの演劇界=ミュージカル(ブロードウェイ)にも入り込んでいます。
リチャードの二人目の妻のヘレンと息子ルパートが「ドイリーカルテカンパニー」として、アメリカでG&Sの作品を上演したり、オスカー・ワイルドなどのアメリカ公演ツアーのマネージメントを担当していました。
D’Oyly Carte Opera Company – Wikipedia
あまり意識されないかもしれませんが、イギリスの一族が、アメリカにも入り込んでいたということであり、そこにはフリーメイソンもいたということです。
ちなみに、仕立て屋「ハンツマン」を拠点にした諜報機関があったという物語を描いたのが、映画「キングスマン ファーストエージェント」でした。
キングスマン:ファースト・エージェント – Wikipedia
この映画が事実なのかはさておき、現実にも、アメリカ南北戦争の際、フリーメイソンのアルバート・パイクが率いる南軍に出資していたのはイギリスのエリザベス1世だということは、アメリカでは割と広く知られていることのようです。
ブロードウェイがポップミュージックのルーツなわけ
こちらもあまり意識されないことかもしれませんが、商業音楽のルーツは「ブロードウェイ」です。
1920年代以降に大流行した当時最高の「ダンス音楽」だった「ジャズ」で演奏していた楽曲のほとんどはミュージカル音楽家が書いていました。
当時はまだレコードより楽譜出版が音楽ビジネスのメインで、そうしたオフィスでは楽曲を作ったり、作曲家がエージェントに新作を聴かせるため、常時ピアノの音が鳴り響いていたのです。その音があたかもブリキの鍋を叩いたように賑やかだったので通りにこうした名前が付き、転じて、そこで出版されたブロードウェイ・ミュージカルの楽譜や作曲家たちのことを「ティン・パン系」などと称するようになったのです。つまりスタンダードとティン・パン・アレーは切っても切れない関係にあるのです。
ティン・パン・アレーの代表的作曲家としては、有名なオペラ『ポーギーとベス』の作曲者、ジョージ・ガーシュウィンがいます。彼はクラシックとジャズを融合させた作品「ラプソディ・イン・ブルー」の作者としても知られていますね。今号では『ポーギーとベス』の劇中歌「サマータイム」のほか、「バット・ノット・フォー・ミー」「サム・ワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」そして「ザ・マン・アイ・ラヴ」といった、ガーシュウィンの名曲を収録しています。これらの楽曲はすべて、スタンダードとして多くのジャズマンたちによって演奏され続けてきました。これは凄いことですね。
ストレート、ノー・チェイサー|ミュージカルや映画から名曲を借りたジャズ【ジャズ耳養成マガジン JAZZ100年】第13巻より | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
でこのティンパンアレイやブリルビルディングなどの「商業音楽生産地域」で職業音楽家として働いていたのが「ジョージ・ガーシュイン」であり、ビートルズなどのロックバンドにカバーされ楽曲提供もしていた「バート・バカラック」や「キャロル・キング」などの作曲家チームでした。
ソングライターの歴史:”Danny Boy”や”ティン・パン・アレイ”、”ブリル・ビルディング”から自作自演アーティストまで
そして上の記事では「(ティンパンアレイの)こうしたソングライターの多くは東欧からの移民だった。」と言及されていますが、この主題はこのサイトでも詳しく見ていくことになります。