
一般に音楽史といえば、以下のようなサイトで説明されているようなものです。
クラシック音楽史とポピュラー音楽史を1つに繋げた図解年表 (PDF配布)|音楽史note (by JUN)
しかしながら、これらの音楽史は、もはや古いものと切り捨ててよいというのが、私の考えです。
長らく権威的だったクラシック音楽がその最後の方に「調性の否定」という道を辿り、芸術音楽を追い求めた結果、「演奏者は音を鳴らさない音楽」に行きつきました。
これにより一部の人たちの間では「やっぱり音楽は深淵で深い」と言われるのかもしれません。そして、だからこそ音楽は「崇高なもの」なのだと結論するのかもしれません。
しかしながらこの結論も、クラシック音楽が辿った道も、もはや過去の遺物です。
本当に素晴らしい音楽は、ただ、霊的に満たされてるかどうかが判断基準で良いと思います。
今を生きている人たちが聞いて、単純に素晴らしいと思えれば良いと思います。
そして、私が知る中では、RAPTさんが発表されている音楽が何よりも「素晴らしいもの」です。
RAPT『蛹から蝶へ』MUSIC VIDEO | RAPT理論+α
RAPT『いのりのちからで』Music Video | RAPT理論+α
私自身は、主に欧米のポピュラー音楽(洋楽)にどっぷりとハマり、断続的に音楽活動も続けてきました。
自分で作曲する中で、いつも「歌詞」について納得がいきませんでした。
自分で歌詞を書きながらも、この歌詞は一体どんな価値があるのか?といつも思っていました。
それはどのポピュラー音楽の歌詞を見ても、同じでした。
特に、1990年代の日本の応援ソングがヒットした頃を振り返ると、なんて薄っぺらい世の中のか?とうんざりするほどです。
そんなレベルで悩んでるわけじゃないんだよ!と、いつも半ば怒りに震えていたと言っても過言ではありません。
このように、全く共感できるような歌詞に出会えず、音楽そのものの構造だけがほぼ唯一の楽しみになっていきました。
多くのクラシック楽曲がそうであるように、歌がなくても、それなりに音楽は楽しめます。
しかし、RAPTさんの楽曲を聴いた時、初めて、「歌詞も音楽も最高!」という音楽に出会いました。
これは、私にとっては、長年の悩みが解消されたという歴史的な事件でもあります。
あいみょんやスピッツのような「隠語」を使うことが「至高」とされる日本のポップスも好きにはなれず、俺はすごい、としか言っていないような「ヒップホップ」も、音楽的に大好きなレディオヘッドの歌詞も、やっぱり最終的には満足できずにいました。
しかし、RAPTさんの音楽は、これまで「讃美歌」と言われていたものが、最高の形でポピュラー音楽と出会っています。
これこそが、私が求めていたことだったと痛感しました。
私自身も、このような歌詞を書けるようになりたいという、新たな願いも誕生しました。
真っ暗だった「歌詞」というジャンルに、輝く「光」が投じられ、新たな希望が沸々と湧き出てきました。
このような体験をしたことも相まって、これまで知っていたあらゆる音楽史が、ほとんど意味をなさないと思うようになりました。
もちろん、これまでの音楽にも学ぶことはありますが「本当に恵み深い」というものは、本当に稀です。
音楽史5.0では、その原因がエンタメ業界が悪魔崇拝に牛耳られていると考えます。
だからこそ、たとえ才能があったとしても潰れてしまう。
プリンスという稀有な天才も悪魔崇拝のせいで、その才能の全てを表現はできなかったはずです。
またプリンスのルーツの一つでもあるジミ・ヘンドリックスも、悪魔崇拝に負けなければ、もっと新しい音楽を切り開いていたことでしょう。
そのような視点に立ち、音楽と悪魔崇拝の関係をより解像度を上げてみていくこと、そうすることで、悪魔崇拝のせいで潰された才能があることを、多くの人が知って欲しいと思っています。