
一般的に「ユダヤ人」と言えば、ユダヤ教を信仰する人で、日本で生まれ育った生粋の日本の人を指すような「日本人」とは違います。
日本人であっても、ユダヤ教を信仰すれば「ユダヤ人」と言われることがあります。
「ブラジル人」も、とても状況が似ています。
アメリカは移民大国と言われますが、ブラジルも似たようなもので、ヨーロッパ、特にスペインやポルトガルの王侯貴族が船団を組みブラジル(南米大陸)へ向かい、そこにいた原住民を菌で駆逐したり、連れてきた黒人奴隷や生き残った原住民との間に子供を持ったりしたことで「ブラジル人」が登場します。
ブラジルではポルトガル語が共通言語ですので、ポルトガル系の支配層がブラジルを支配しています。
これらは、ヨーロッパによる征服の最初期の話で、アメリカと同じように、時代が進むにつれてあらゆる場所からの移民がブラジルにもやってきます。
イタリア、アルメニア、オーストラリア、アンゴラ、ラトビア、ウクライナ、ベネズエラ、ハイチ、アメリカ(U.S.A)、そして日本からもです。
第二次対戦後、ナチスの高官らはアルゼンチンのみならず、ブラジルにも移住していました。
ブラジルというのは不思議な国で、歴史的に世界中から「虐げられた人々」「社会の大変動で居場所を失った人々」が集まって来る。
《記者コラム》ブラジルで「伝統」になった米国南部連合の旗 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB
イタリアからは産業革命で仕事を失った人や大水害などの自然災害から逃れてきた人、オスマントルコ帝国の少数民族差別や虐殺から逃れてきたアルメニア人(サンパウロ市メトロの駅名になっている)、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人やオーストリア人、内戦から逃れてきたアンゴラ人、第2次大戦のロシア侵攻から逃れてきたラトビア移民、チェルノブイリ原発事故後にやってきたウクライナ移民、最近でも、独裁政治から逃れてきたベネズエラ難民、大地震後に来たハイチ難民など枚挙にいとまがない。
アメリカから来た移民も、そうだ。
北米最大の内戦・南北戦争(1861―1865年)で敗北した「アメリカ連合国(Confederate States of America、CSA)」側の人々が、1865~85年頃までの間に3~5万人ほどもやってきた。彼らの多くは、サンパウロ州カンピーナス周辺のアメリカーナ、サンタバルバラ・ドオエステに入った。前者の市名の語源になったのは、名前の通り「Vila dos americanos」(アメリカ人村)だ。
ちなみに、南北戦争後、アメリカからブラジルへの移民を手引きしたのはフリーメイソンの「ロバート・E・リー将軍」でした。

アメリカ人移民が導入されたこの当時、ブラジルは帝国でドン・ペドロ二世の治世だった。米国南部では棉栽培が盛んで、英国や欧州に盛んに輸出されていた。そこでドン・ペドロ二世は、米国南部で棉生産の経験を持つ人材に補助金を出すことで移住促進し、コーヒーに次ぐ新産業を育てようとしたのだ。
その仲介をしたのはドン・ペドロ二世も加入していたフリーメイソンのメンバーで、連合国側ではロバート・エドワード・リーが斡旋を手伝ったという。アメリカ連合軍(南軍)司令官を務めた、あの人物だ。物量や兵員において圧倒的に強大だった北軍を大いに苦しめ、最終的には敗北こそしたが、「アメリカ史上屈指の名将」とも一部では言われる軍人だった。
アメリカ人移民らは、南北戦争で徹底的にインフラや道路が破壊しつくされた南部が復興するには、何十年もかかるに違いないと考えた。また北部のアメリカ人からの差別や迫害に怯えて生きるより、奴隷制度が残っており、地価が安いブラジルで心機一転、大農場を始めようと考えた。
同上
南北戦争で北軍を苦しめた南軍の司令官が、ブラジルのサンパウロへの移住を斡旋し、南北戦争で負けた白人たちは、ブラジルに場所を移し奴隷を利用した大規模農場を続けたわけです。
それを仲介したのが、ブラジルの「トップ」ドン・ペドロと「フリーメイソン仲間」だった、ロバート・E・リーだったわけです。
話は飛びますが、彼らユダヤ人のルーツがウクライナ周辺ということを明確にされたのが、ラプトさんです。ぜひ以下の動画もご覧ください
RAPT | RAPT×読者対談〈第50弾〉ユダヤ陰謀論、ここに極まれり。
ブラジル音楽のとユダヤ人
アメリカの上流階級や支配層がユダヤ人であることは有名です。
RAPT | 悪魔のバフォメットと長崎の平和祈念像とアメリカ初代大統領のジョージ・ワシントン像とが同じポーズをしている理由。
【バイデンもトランプも小児性愛者】バイデンは娘に性的虐待 トランプも娘を溺愛し、エプスタインと親友 | RAPT理論+α
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実は、ブラジルにもユダヤ人が国の重要な地位に入り込んでいます。
さらに言えば、ボサノバの「始まり」もユダヤ人が大きく関わっていました。
以下は、「ボサノヴァの歴史 | ルイ カストロ著, 国安 真奈訳」という書籍からまとめた部分です。
フラメンゴ区フェルナンドオリーゾ街建物(現在のCh・N・ビリアッキ図書館)での「在ブラジルユダヤ人学生グループ/GUHB」のイベントの看板に「今晩の催し物。シルヴィーニャ・テリスと新しい傾向のグループ(O Gropo Bossa Nova)」と、主催したユダヤ人グループの女性事務員が書いた。このとき「Bossa Nova」は「ただの形容詞」だった。p281より
ホナルド・ボスコリもユダヤ系。ボスコリは1958年ころ、UHというタブロイド誌のスポーツ欄のコラムニストで、GUHB のアートディレクターだった。p215
「ウルチマオーラ誌」記者でGUHBのアートディレクターだったモイゼース・フッキスがこのボサノバという言葉が初めて使われたコンサートの企画運営者の一人だった。p289
ちなみに、ジョアン・ジルベルトが一時期結婚していたアストラッドの父ジョルジ・アマードは、サルトルやボーヴォワールと友人で、家に来たこともあるほどの人物だったそうです。
このユダヤ人学生グループが開催した音楽フェスティバルが、ボサノバ誕生につながるイベントだったと言われています。
このグループのアートディレクターのうち二人ばユダヤ人で、それぞれ出版業界で働いていたのです。
ブラジル第二の国歌を作曲した「ピメンテル」というユダヤ人
ブラジルで第二の国家とされる楽曲があります?
この楽曲を作曲したのが「Acyr Pimentel e Cardoso」
このアシル・ピメンテルという人物は、リオのマドゥレイラにあるサンバチームのメンバーです。
彼は、1975年のカーニバルで演奏する楽曲を決めるコンテンストに「Estrela de Madureira」を提出するも採用されませんでした。
しかしこの「Estrela de Madureira」という曲は、その後、多くの人に歌い継がれるようになったそうです。
またピメンテル(Pimentel)は、中世のポルトガルやスペインに起源を持つカトリック系の名字とも言われ、セファルディ系のユダヤ姓でもあるそう。さらにピメンテルは、ポルトガルのユダヤ人セファルディックの起源であるとも考えられているそうです。
ピメンテルはポルトガル語に起源を持つポルトガル語およびスペイン語の姓で、その貴族たちは当初、名門ポルトガル・ベナヴェンテ家の一員でした。別の分家がスペインに設立され、そこではピメンテル家を構成していました。ピメンテル家は、ポルトガルに起源を持つスペインの貴族家で、カスティーリャ王国でも地位を確立し、名を馳せました。
ピメンテルはコショウの木や香辛料を意味し、名前の由来として職業(コショウ農家)や場所(コショウが育つ場所)を示唆しています。さらに、ポルトガルのリスボンにある宗教裁判所の記録文書は、多くのセファルディム系ユダヤ人(新キリスト教徒)のピメンテル家が、16世紀から17世紀初頭にかけてのポルトガルによる香辛料貿易独占期間中に、著名な香辛料商人であったことを裏付けています。
中略
この姓の祖先は、ペトルス・マルティーニ・ピメンテル(1252年生まれ)と、ポルトガルの騎士、ジョアン・アフォンソ・ピメンテルに遡るとされています。[1] この名前はポルトガル帝国全体、そしてその後のポルトガル人のディアスポラを通して広まりました。
この名前は、ポルトガルのユダヤ人の歴史、特にポルトガル宗教裁判所におけるカトリックへの改宗者(コンベルソ)と関連付けられています。トッレ・ド・トンボ国立公文書館に保管されている裁判記録には、異端行為で告発され、ユダヤ教に逆戻りした新キリスト教徒のピメンテル家の事例が数百件も記録されています。[要出典]
セファルディム系のピメンテル家は、スペイン、ポルトガル(アゾレス諸島、マデイラ諸島)、アムステルダム、ハンブルク、パリ、ロンドン、サルデーニャ、シチリア、リヴォルノ(イタリア)、ブラジル、カーボベルデ、アンゴラ、ニューイングランド、フロリダ、カリフォルニア(アメリカ)、バルカン半島、オランダ領アンティル、ガイアナ、ドミニカ共和国、メキシコ、ペルー、ジャマイカ、ゴア(インド)、フィリピン、ニューヨーク、そしてラテンアメリカに存在しています。Pimentel (surname) – Wikipedia
ちなみに「ピメンテル」という地名があるのが、イタリアのサルディーニャ自治州です。
ブラジル第二の国歌とも言われる「Estrela de Madureira」という楽曲の作曲者には、ユダヤ人がいたということですが、ボサノバの成り立ちにもユダヤ人は関わっていました。
ジョアン・ジルベルトのパトロン「ヌネス」というユダヤ人
実は、ボサノバの神様と言われるジョアン・ジルベルトらの育ての親に「ベネー・ヌネス」という人物がいました。
ジョアン・ジルベルトの周辺には、ボサノバを形作っていく若者たちのグループがありましたが、彼らを陰から支えていた人物の一人が、このベネー・ヌネスでした。
1920年に生まれ、1994年に亡くなったベネー・ヌネス Bene Nunes はブラジルの大統領クビチェックのお友達で、お気に入りの「ピアニスト」でした。ユスセリーノ・クビチェクは音楽が好きだった – Jornal Opção
前出の書籍から「ベネー・ヌネス」がどんな人物だったかわかる部分を記述します。簡易的な箇条書きですが、ご了承ください。
ベネーは、クビチェック大統領のお気に入りのピアニストでクビチェックの夜会のパーティでピアノを弾いていた。
その妻がドゥルシ・ヌネスで「ストロガノフ」をボサノバアーティストたちに振る舞っていた。これは、1959年の最後の週・ベネーの広大なアパートでの「オ・クルゼイロ」誌の10ページに及ぶボサノバ特集の際の出来事だった。「ストロガノフ」は、フォン・シュトゥカート男爵がナイトクラブ「ヴォーグ」で紹介して以来、ブラジルで流行り出した料理だった。
ヌネス夫妻をはじめ、ブラジル社交界の人々が、「ボサノバ」は自宅の高級感に見合った音楽だと考え、ボサノバアーティストたちが上流社会の人々に呼ばれては演奏していた。
この頃のブラジル社交界の一部メンバー
- イレーニ・シンジェリー
- ビアンカ・ジャネール
- ベイビー・ボカイウーヴァ・クーニャ
- ヴィクトリーノ・フレイリ上院議員
- ルーラ・フレイリ
- ネルソン・モタ(ネルシーニョの父親)
- アウグスト・フレデリコ・シュミット(詩人)
ベネーはピアニストで、彼の妻は歌手のドゥルセ・ヌネス Dulce Nunes で、二人が、初期のボサノバアーティスたちを集めた演奏会を行い、その人脈によって、ボサノバを広めていったのです。
そしてこのボサノバのパトロンと言える「ヌネス Nunes」という苗字はポルトガル系の名前で、ウルグアイなどにもいるそうです。
最近のブラジルの外務大臣も「ヌネス」だそうです。
私の父はブラジルにも来ていますが,幸いにして私の前任の岸田氏もブラジルを訪れています。したがって,ブラジルは24年ぶりの(外相)訪問ではありません。父は天皇皇后両陛下に随行しブラジルを再訪しました。訪問の後,両陛下がブラジルでいかに熱烈な歓迎を受けられたか,父から聞かされました。大変感謝しております。また,眞子内親王殿下が日本人移住110周年を祝うためブラジル訪問を予定されていると伺い大変喜んでおります。
先週木曜,私は貴国のヌネス外務大臣を執務室にお招きし,また昼食を共にしました。ヌネス大臣は既に御自身の飛行機をお持ちなのでしょう。 私たちは日伯間の二国間関係とより緊密な協力へのコミットを確認しました。本年は日本人ブラジル移住110周年に当たります。今日,ブラジルには190万人の日系ブラジル人がおられ,日本には18万人のブラジル人がいらっしゃいます。昨夜,若手の日系ブラジル人の方と懇談した際に最も印象的だったのは,皆さんがこの国で大変活躍されていること,そしてブラジル人であり同時に日本にルーツを持っていることに誇りを持っておられることでした。
我々は,ブラジルの皆さんの日本への信頼が,日本人移住者と日系の子孫の方々によるこの国の地域社会へのたゆまぬ貢献の上にあることを決して忘れません。大変感謝しています。ジャパン・ハウス サンパウロにおける河野外務大臣の政策スピーチ|外務省
河野太郎はこんなところにも出てくるんですね。
さらに言えば、ウクレレの開発者もブラジルの「ヌネス」で、このヌネスは、ポルトガル系ユダヤ人と言われています。
ヌネス姓の意味
ポルトガル語およびガリシア語:人名Nunoの守護霊。ユダヤ系(セファルディック):ローマ・カトリックに改宗した際に採用されたポルトガルの姓(上記1参照)。ユダヤ教に改宗した後(数世代後)、一部の子孫は一族がカトリック信者として使用していた名前を残した。英語:Ellesmere ShropshireのNewnesの変種。この地名の語源は不確かで、古英語のnīwe「新しい」+næss「岬」に由来すると思われるが、「新しい岬」という意味は明確でなく、そのような地名はこの地の地形に合わない。Nunes Surname Meaning & Nunes Family History at Ancestry.com®
パブリック・プロファイラーによると、ヌニェス姓の大多数はスペイン、特にエクストレマドゥーラとガリシア地方に住んでいる。米国とアルゼンチンにも中程度の人口が存在し、フランスとオーストラリアにも少数が存在する。また、メキシコやベネズエラでもよく見られる名字である。Nuñez: The Meaning, Origin, and Genealogy of the Surname
ヌネスは「セファルディック」のユダヤ系と言及されていますが、オランダ統治時代のブラジルにやってきたのが、セファルディ系ユダヤでした。
上記のリンクには、ポルトガルからやってきたユダヤ人たちが、のちのブラジルの「砂糖産業」を支えたとされています。
以下に、ユダヤ人がブラジルにやってきた時系列と元々居た国を一覧しておきます。
- ポルトガル系ユダヤ|異端審問の迫害で通報されブラジルへ|1636年にレシフェにアメリカ大陸最初のシナゴーグを設立
- モロッコ系ユダヤ|アマゾンのゴムブームの影響|19世紀*第一次世界大戦までに約7000人のユダヤ人がブラジルに居住
- ロシア、ポーランド系ユダヤ|ポグロムの影響|1930年代?
- ドイツ系ユダヤ|ナチス台頭による影響|1940年代
- 北アフリカ系ユダヤ|アルジェリア危機?|1950年代
ブラジルの大統領「JK」
またブラジルの大統領のジュセリーノ・クビチェック・デ・オリヴェイラの母方はチェコ移民で民族的にはロマとされています。

クビチェック大統領は、通称「JK」と言われていたので、ここでも「JK」で統一し、簡単な経歴を載せておきます。
JKは日本、アメリカ、ドイツなどからの外資導入と工業化を進め新首都ブラジリアを設立。
1964年ブランコ将軍のクーデターで亡命し、1976年に交通事故で死去。2013年に、ウラジミール・ヘルツォークの真実委員会が、「JKの死は軍部による暗殺だった」と発表するが、証拠は明らされていない。
また、JKのお友達のオスカー・ニーマイヤーはサンバ会場を設計し、レーニン国際平和賞、高松宮賞などを受賞したブラジル共産党の建築家。
ニーマイヤーは1940年にJKと出会い、ブラジル共産党に入党。1952年にル・コルビジェと共にNYの国連本部ビルをデザインする。
他にもニーマイヤーは、ブラジリアの主要な政府施設の設計も担当。フランスの共産党にも入党しフランス共産党の本部施設を設計。さらには日本企業の東京海上火災のサンパウロにある本社も設計。
こう見てくると、ブラジル大統領のお友達の建築家は、明らかに天皇派です。高松宮賞を受賞しているほどですから。
RAPT | どの角度から見ても「天皇」こそがこの世界の悪の頂点です。
コーヒーとブラジルの好景気
ブラジルが戦後にコーヒーで儲かったのは、アメリカが独立後に「紅茶」を飲まなくなり、コーヒーがスタンダードな飲み物になったからということを以下の動画で知りました。
とうようズ・デイ2021 ポピュラー音楽の起源とその歴史をふり返る – YouTube
支配階級がフリーメイソンだったということは上で話した通りですが、実はボサノバもフリーメイソン人脈に繋がり、その中心的人物はゲイでした。
ボサノバの多くの曲で「作詞」をしていたのが、フリーメイソンで外交官で、同性愛者とも噂される「ヴィニシウス・ヂ・モライス Vinicius de Moraes」です。

以下にモライスの簡単な年表を残しておきます。
1920年 彼は彼の母方の祖父を通してフリーメーソンのロッジへの入り口を得ましたVinicius de Moraes – Wikipedia(記事公開じには削除されているようです。元の文章日本語訳をこの記事の最下に引用しておきます)
1924年 モラエスはイエズス会の高校である聖イグナチオに通い、合唱団で歌い、演劇のスケッチを書きました。3年後、彼はパウロ兄弟とハロルド・タパジョス兄弟と友達になり、友人のパーティーで演奏された最初の楽曲を書きました。RAPT | 世界を支配しているのはイエズス会 (イルミナティ) であり、イエズス会のトップは天皇です。
1929年 リオデジャネイロ連邦大学入学
1936年 ブラジル政府教育・保健部門のフィルム検閲業務
1938年 ブリティッシュカウンシル認可の元、オックスフォード大学へ留学 ファイスト支持者から左派へ転向
1941年 政府系金融機関職員と並行して文芸活動・ジャーナリスト活動も行う
1943年 ブラジル外交官となりロサンゼルスの領事館勤務。パリ、ウルグアイ、ローマに赴任。前衛派の詩人として文化振興活動も開始。
1950年後期 ブラジル国連大使就任。ジョビンと知り合う・「ボサノバ」誕生前夜
1957年 「想いあふれて」作詞。同時にジョビンが作曲
1956年 エルゼッチ・カルドーソ、コパカヴァーナレーベルへ移籍。モライス、ミュージカル「Orfeuda Conceição(概念のオルフェウス」)」を上演
1958年 「想いあふれて」をエルゼッチ・カルドーソが録音
1959年 「想いあふれて」をジョビンが録音。モライス原作映画「黒いオルフェ」公開(リオデジャネイロのジャズシーンが盛り上がっていた当時、ミュージシャン、アーティスト、劇作家がこのような演劇でコラボレーションするのは当たり前のことだった)
1962年 カーネギーホールでボサノバコンサート開催。以後、アメリカにボサノバを広める。
別記事で詳細に書く予定ですが、アメリカに「新聞王(例えば「市民ケーン」のモデル、ランドフル・ハースト)」がいたように、ブラジルにも新聞王がいました。
ビルボードチャートがなかった当時、売れるか売れないかを左右するのは「ラジオで曲が流れるかどうか」でした。ラジオで、ヘビーローテイションされれば、大きく売れました。
つまり、ディスクジョッキーや人気ラジオ番組のプロデューサー、そのラジオ局のオーナーが、歌手やアーティストの命運を握っていたわけです。
特にジョアン・ジルベルトの時代ブラジルのメディア王として君臨していたのは、アシス・シャトーブリアンという人物でした。

前出の書籍によると、ブラジルの新聞王で、ラテンアメリカで最初のテレビネットワークを設立した人物で、ラジオ・ツピーやラジオ・ナシオナル(日本でいうNHKラジオ)も彼の支配下でした。
また英語版のWikipediaによると
アシル・シャトーブリアンは、1930年代から60年代初頭までブラジルのメディア王で、「ディアリオス・アソシアドス」のオーナー。ディアリオス・アソシアドスは、ブラジルの報道機関史上最大規模のネットワークだった。
ラジオ・ツピーは、ブラジルで最初のテレビネットワークで、無線電信の開発者として知られる「グリエルモ・マルコーニ」が、開局の式典に出席し、マルコーニの会社の通信設備によって運営されていた。
ブラジルのメディア業界はどんなものかと不明な部分が多い印象でしたが、結局、世界どこでも同じような形になるということが、改めてわかりました。
詩人でありアマチュアのギター奏者でもあった市役所職員のクロドアウド・ダ・シルバ・ペレイラ・モライスと、主婦でアマチュアのピアニストだったリディア・クルスの息子として、ヴィニシウスは1913年にリオデジャネイロの郊外の田舎町だったガーヴェア地区で生まれた。1916年、一家はダウンタウンのボタフォゴ地区の様々な場所に引っ越し、そこでアフラーニオ・ペイショト小学校に通った。1920年、母方の祖父を通じて、彼はフリーメーソンのロッジに入会した。1922年、モライスの両親は、コパカバーナで起きた今年の軍事蜂起に衝撃を受け、別の郊外であるゴヴェルナドール島に引っ越すことになった。一方、若いヴィニシウスは小学校を卒業するために祖父のダウンタウンの家に滞在し、週末や休日にのみ両親の家に行った。両親の家を訪れるうちに、ヴィニシウスは作曲家のボロロをはじめとする様々なミュージシャンと知り合うことになった。(編集前Vinicius de Moraes – Wikipedia)